1. 弾道ミサイルに「ポエム」で立ち向かう愚
斉藤氏はポストの中で「武力ではなく対話を中心とした中道の精神を発揮すべき」と説く。だが、国家の存亡をかけて引き金に指をかけている当事国に対し、日本のいち政治家が放つ「対話」という言葉に、一体どれほどの抑止力があるというのか。
生活者の平穏を願うのは、私たち一般市民の役割だ。政治家に求められているのは、同盟国との調整、エネルギー供給網の確保、そして最悪の事態を想定した邦人保護という、血の通った「冷徹なリアリズム」である。具体なき理想論で現実を塗り潰そうとする姿勢は、国民の命を預かる者としての「覚悟」が欠落していると言わざるを得ない。
2. 「中道」という名の無責任と逃避
彼らが好んで使う「中道」という言葉。それは、どちらの側にもつかず、どちらの責任も取らない「どっぷり浸からない」ための隠れ蓑だ。国際社会の荒波において、明確な意思表示を避ける「中道」は、実質的には「無価値」であり、単なる「思考停止」の同義語である。
「米国に対し、強く働きかける」という威勢のいい言葉も、裏を返せば「自分たちには何もできないが、他人に期待する」という他力本願の現れだ。実効性のない「働きかけ」を口にすることで、仕事をしているフリをする。これこそが、長年与党の座にしがみついてきた老獪な政治手法の正体だ。
3. 「平和」を語る口で「利権と不正」にまみれる矛盾
斉藤氏が「平和」や「清潔」を叫ぶとき、私たちはその足元を見つめ直さなければならない。彼が要職を務めてきた組織や党の歴史は、決してその言葉通りではないからだ。
- 「政治とカネ」の汚濁: かつて公明党の遠山清彦元財務副大臣が、コロナ禍の公庫融資を巡る貸金業法違反で有罪判決を受けた事件を忘れてはならない。斉藤氏は当時、党の幹部としてこの腐敗をどう見ていたのか。身内の不正すら浄化できない人間が、国際社会の平和を語る資格があるのか。
- 「平和の党」の変節: 斉藤氏が国土交通大臣という強大な権力の座にいた間、自公政権が進めてきたのは「防衛装備移転三原則」の緩和、すなわち事実上の武器輸出の解禁だった。口では平和を唱えながら、裏では軍事産業の拡大を支える。この二重基準こそが、彼らの言う「中道」の正体ではないか。
- 居座り続ける国交相ポストの闇: なぜ公明党は、道路、港湾、建設といった巨大な利権を司る国交相のポストを20年近くも独占し続けていたのか。生活者の平穏を言いながら、特定の支持母体や建設業界への利益誘導を優先してきたのではないかという疑念は、今も消えていない。
4. 結論:今、必要なのは「祈り」ではなく「覚悟」だ
緊迫する中東情勢を前に、政治家に必要なのは「お花畑」なポエムではない。日本がエネルギー危機に陥った際、どうやって国民の生活を守るのか。同盟国が動くとき、日本はどう泥をかぶるのか。その「泥臭い決断」こそが政治の本分だ。
過去の不正を曖昧にし、有事になれば耳触りの良い言葉を振りまく斉藤鉄夫氏。彼が説く「中道」が、いかに空虚で、いかに国民を危険にさらす無策であるか。私たちは、その甘い言葉の裏にある不誠実な足跡を、決して見逃してはならない。
政治家よ、平和を祈る前に、まず自らの「身の潔白」と「現実」を直視せよ。

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